2005年 10月 10日
彝族と対マン鍋に挑戦 |
みごと学生復帰を果たした月曜日。
またこてんぱんに打ちひしがれるかと思ったら、10月に入って秋の空とともに風向きも変わってきたようで、まだ分からんことが多いなりにチベ語が直接体にしみこんでくる感触。
近くにできた蘭州ラーメンのお店で麺を引っかけた後、落ち着くとこに落ち着いて漫喫してました。
幸福な時が2時間、3時間と過ぎ去った頃に静寂を破る携帯の呼び出し音。
グーウエイムーチュィさん。
拙ブログでは、ネット界公認の実名および仮名有名人の方々についてはそのまま登場をお願いしてますが、それ以外の方は独自の偏光フィルターをかけての登場が基本。
今回も一応原則を貫きましたが、彼は彝(イ)族なので多分本名を表示したとしても意味の分からない言葉です。ちなみに漢字表記だと名字と名前が2文字ずつ。
彼とは、毎週火曜日に開かれている日語角(日本語コーナー→参照:http://itoyama.seesaa.net/article/7207378.html)でちょっぴりお話しした間柄で、「日本語科学部生よりちょっと日本語うまいな」くらいの印象。
今年9月から民族大大学院で少数民族文化を研究しており、年齢はわたしより一つ上の33歳。他の院生とちょっぴり違うところは、院試を日本語で受験したため入学後は研究の傍ら単位取得のため院にはない日本語の授業を学部日本語科3年生と一緒に受けており、もう一つは入学前、四川省凉山彝族自治州西昌市のテレビ局で記者をしていたということ。
ところでこの彝族。
中国55少数民族で6番目に多い人口658万人(1990年国勢調査)。小学館の「中日辞典」によれば、
チベット系の少数民族の一つ。雲南を主に四川・貴州にも居住。農業を主とし、牧畜も営む。解放まで一千年あまり続いた四川凉山の奴隷制社会は有名
とあります。
本当に「有名」と断言していいかは知りません。
まさに彼はその凉山の出身。
ならば本日、その「ダーク」な世界の一端をかいま見てみようではありませんか。
「会ってからどこで食べるかは決めましょう」
なんて食いもんに目がないわたしに相当な期待を持たせておきながら、待ち合わせ場所で会うなり言ってきたのが
「学生食堂はどうですか?」
はないでしょう。
あなた昔テレビの人。わたし少し期待するじゃないか。
「(えっ誰もが口をそろえてまずがってる学食?)何かお勧めがあります?」
「はい回鍋肉があります。四川料理は大丈夫ですか」
(きたきた。こっから何としても「火鍋」に修正だ)
「はい四川の人よりも辛い料理は好きです。食堂に辛い料理はありますか?」
「それでは食堂3階のレストランに入りましょう。鍋料理がありました」
「おっ、鍋。いいですね。『火鍋』ですか?」
「いや『牛肉スープ鍋』といいます。おいしいですよ」
これが妥当な着地点というところ。
「胃が悪いから」という理由で酒も飲めないらしいし、プリペイドカード式の1階から脱出できただけでOKというべきでしょう。
食い物がダメだったら話でもとをとるしかないわけで、ビアガーデンのように半分屋内半分屋外のレストランに入って流れのままに一鍋20元の「牛肉湯鍋」を注文すれば、さっそくいろいろと取材を始めてみました。
チベット語を学ぶ身分の手前、「チベット系の少数民族の一つ」あたりからくすぐりを入れてみました。すると、
「チベットはインドの文字(サンスクリット文字)を借りて字を作りましたが、私たち彝族は自分たちの文字文化を持っています。おそらく3、4000年は下らない歴史の…」
とおっしゃってました。鼻をふくらませながら。
これはインド人やアラブ人たちにも通じる「分かりやすい(≒愛すべき)人種」のお方なのかもしれない、と直感。
プライドの高い彼らとのお話は、刺激するツボをちょちょんと変えるだけでOK。たどたどしいながらも「彝族大好き」「自分たち大好き」な言葉の洪水が押し寄せてきます。
字にできる話ばかりではないのが残念ですが、それは話を直接聞いた人間の特権ということでご容赦いただくとして。
「解放」前まで奴隷制が浸透していたのは本当らしく、さらに同じ民族同士でもドンパチが絶えず。近現代以降も国民党の言うことなどどこ吹く風。第二次世界大戦中、彝族の統治エリアに不時着した米国空軍のパイロットがそのまま地元豪族の奴隷となり、そのまま約3年間。国民党を通じたアメリカ軍の要求にも応じることなく、元パイロットはこき使われ続けたそうです。
でもこの金髪碧眼の奴隷さん。
地元彝族の女性と結婚はできたみたいで、
「へえ。奴隷でも結婚はしていいんですね」
「はい。子供を産ませた方が労働力が増えますから」
「はは、はは」(にが笑うわたし)
さらに彼ら彼女らの大好物は今も昔も「生後3カ月の子豚」
「さ、三ヶ月。じゃなきゃだめなんですか?」
「はい。肉の柔らかさが最高です。おめでたいときはいつも3カ月のぶた」
炭火でじっくり焼き上げるとこれは大層美味らしいから少しよだれが垂れてきちゃいます。彝族好感度+10です。
でも、ブタって結構多産な動物。
あの母親の乳房の数をみれば一目瞭然。
どれも10匹ぐらいを全て同時期に食べるなんて不可能な気もするし、だから高価な料理になるのでしょうか。
「ほとんど3ヶ月で食べきります。それくらいブタが好きですね」
本当に自信たっぷりなんです。
さて、期待できないとは言いつつもどこかで「逆転満塁Vゴール」を期待していた牛肉スープ鍋ですが、「可もなく不可もなくなく」。
もともとさっぱり系スープで煮込んだ牛肉や大根、ジャガイモを、豆板醤ベースのたれにつけて食べるんだけど、「ちっとも辛くないから」というのが最大の理由。さっぱり系といいきれるほどスープに爽快感もなし。だから辣椒を追加注文したのに、運ばれてきたのは「辛みそ」だったりするから、この店の「耐辛レベル」は推して知るべしでしょう。
ま、久しぶり地元「雪花ビール」がうまかったからいいんですけれど。
豆乳しか飲んでないはずなのに彼の口はなめらかさを増すばかり。まだまだ話したりないらしく、食事の後は寮にまで連れ込まれてました。さらに彝族話は続きます。
6階建ての男子寮で大学院生はなぜか最上階。4人部屋で実際入居しているのは2人で、さらに同部屋の一人は学外にも部屋を借りているらしく、「ほとんど戻ってこない。一人で使うだけです」とまんざらでもない様子。エレベーターなんて当然ないからきついだけだと思うんだけど、まあこの9月にオープンしたばかりらしいし、相当見せたかったんだろうなぁという雰囲気ありあり。
さてそんな彼がいたいけなわたしと二人っきり。
そんな空間で見せてくれたもの。
まず一つめは1896年、四川省の南、雲南省の昆明にあったフランス領事館の領事によって撮影されたとする写真集「百年凉山老照片」。
いやあ。幕末から明治にかけて、日本にやってきた異人さんが撮影した写真を想像してもらったら、その雰囲気は何となく伝わるかと思ういます。でも、こちらはさらに上手(うわて)。
ほぼ裸一貫か、黒色または紺色の布を体に巻いた浅黒い男たちが槍を構えたり、刀を振りかざしたり、まごうことなき戦闘態勢です。
「これは彝族語をちょっと分かったとしても話は通じないな。国民党も米軍との板ばさみで大変だったろうなぁ」
そんな感想を抱いちゃうくらい。
見た目一番近いのは、探検家関野吉晴さんがジャングル奥地の集落を尋ねたとき、ほぼ裸一貫で「おっ、おっ」「うおっ、おっ」と言いながら大挙して押しかけ、関係してくれる南米のインディオ系ですね。
でも。当時の写真ってシャッタースピードかなり遅いはずなんで、彼らをぶれずに写すためにはかなりじっとしてもらうしかない。だから逆に「かなり協力的」だったこともうかがえるわけ。要するに彼らの「かっこいい」ポーズとは、やり持ったり剣かざしたり、がんつけたりすることらしいですね。
うん。ほほえましい。
さらにほほえましいエピソードをもう一つ。
グーウエイムーチュィさんもかなりの旅マニア。
でもどちらかというと日本の「鉄道マニア」に近いような収集癖があるようで、宝物のを扱うように本棚から出してきたのがスクラップブック。
北京や南京、地元四川省内も峨眉山や楽山、さらに雲南省も北から南までかなり熱心に回られたみたいで、鉄道チケットや長距離バスチケット、観光地の入場券などを全てノートに貼り付け、隙間には小さな文字でびっしり旅の記録(日記)を記してございます。
それだけなら「まだ分かりあえる」部分がなきにしもあらず。わたしも旅行が終わるまではチケットや航空券は捨てれないたち。旅終わっちゃえば、日記もスクラップも残さず捨てちゃいますが。
で、彼がそこにとどまらないのは、普通は「ポケットのもくず」に消え去りちゃいそうな市内路線バス(1元、2元)のチケットまでご丁寧にピン札で貼り付けてるってこと。これだけ几帳面な男があの戦闘大好き民族の末裔だとは、時代も変わったもの。
ただ、そんな彼も失われていく彝族の伝統文化に心を痛めているらしく、大学院卒業後は地元西昌に戻って、彝族のドキュメンタリー映画を撮るのが大きな夢。
個人で映画を作るのは金もかかるし、撮影許可も難しいに違いない。でもせっかく日本語を勉強して日本にも彝族の文化を紹介したいという心意気を熱く語って第一回取材は幕を閉じたのでした。
とにかく中国人としても、彝族としてもとにかくあんな細かい人だったら綿密に計画を進め実現させるはず。3カ月の子ブタとさらにもう一つ、美味しい物を紹介してくれたらわたしも喜んでサポートするつもりですよ。
by itoyamamakoto
| 2005-10-10 20:38
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