2006年 05月 23日
芸術が先か、金が先か |
ホント最後?チベ旅6
夏河ー同仁ー西寧
イタリア・ルネサンスを支えたのはメディチ家。北山、東山文化も「将軍さま(by新右衛門さん)」のご意向あってのこと。
今の中国現代美術界だって小金持ち以上大金持ち未満の投機目的野郎どもが「芸術バブル」を盛り上げてるというし、とにかく何が言いたいのかというと、
芸術と銭は切っても切れない関係にある、
ってこと。
でも、ニワトリと卵論争と同じで、芸術と金のどちらが先にあったのか?
普通考えりゃ、芸術でしょうよ。
なんで唐突にこんなことをほざき始めたのにはわけがあって、本日バスで夏河から北西に約3時間半、とうとう青海省に足を踏み入れた同仁という町にある隆務寺(ロンウォ・ゴンパ)に参拝したから。
隆務寺自体700年以上の歴史をもつこの地域では中心的な寺院。周辺のゴマルやセンゲションには仏画師や彫刻家などが集まって暮らしており、チベット文化圏全域を見渡しても「レゴン芸術」という音に聞こえたブランド名をもつ芸術家密集エリアを形成。
この「レゴン」なんていう、槌音じゃなくてガムランの響きが聞こえてきそうな芸術の場合は間違いなく、卵(芸術家)よりも先にこの地域にお寺が密集していたからこそ絵師や工芸師、宮大工の需要が掘り起こされ、その技術を高めていったはず。
このようにわたしは本日、ロンウォ・ゴンパにてかなり「レベルの高いチベット芸術」に触れてみたはずなので、こんなことを考えなきゃ、と思ってみた次第。
で、実際に寺にたどり着いてみてまず一発目の感想は
700年の歴史をもつという割にその古さがまったく感じられない
というもの。理由は簡単で、建物自体もそこの壁画も、中の仏像などもすべてが「超新し物づくし」だっかたら。
それはやっぱり「例の時期」にことごとく被害を受けたからなのかもしれないんだけど、寺院のあちこちにクンドゥンの写真、さらにもっとやばいであろうニマ君の写真を飾ってあるような要領のよい寺なら当時の災難も要領よく逃れることもできたはずだし…。
とにかく、寺は昨日のラプラン寺にもそう引けを取らないくらいに広いというのに、どれもこれも「昨日完成したようにピカピカ」。
それこそ「レゴン芸術」のアーティストたちがその筆やのみをふるった結果だと言えるわけで、分厚く金箔の塗られた仏画やこれまでのチベット寺院ではほとんど見たことないような精巧な細工の施された柱なんかはかなり新鮮。
◎参考写真:あと、なんか迫力がありました。ありません?ありますよね
またしても坊さんたちにあまり中国語が通じないという「嬉し&もどかし」状況に出くわしてしまって、
「どの芸術家に発注するのか」「これも完全にお布施扱いで寺はまったく金を払わないのか」
など詳しいことを聞けなかったのが残念なところ。
ところで本日のテーマが芸術なのは分かったけど、どうして「金」をからめちゃったのか。別に「芸術と歴史」でも「芸術と人材育成」でもいいのに、ね。
実は、チベット寺院を参拝するときには日本のお寺にはない便利なシステムがあって、
「お布施を勝手に取って(×盗って)両替ができる」
たとえば「1元札を10角札10枚」といった具合。普通、寺の中に置かれた仏や菩薩、聖人たちの像の前にはだいたい小銭の札の山ができているんで、わたしもよく利用しておりました。
ところがこのロンウォ・ゴンパの場合、ほとんどのお堂でお布施の最低価格が1元札という超インフレお寺。
1角札をちょこちょこばらまこうと思ってたわたしのせこい心を見透かし、あざけるかのよう。
両替できずに固まってしまったわたしを尻目に、これまでの寺だったら手の届かないところに貼り付けてあるような10元札、20元札まで目の前に無造作に置かれていたりする。
ここの寺は参拝者も金持ちばかりなのか?
だからこそあんな新しいもんがバンバン作れんのか?
要するに嫉妬ですな。
これでいいんです。
芸術と金が切っても切れないように、文学とジェラシーもこれ以上ないカップリングで数千年の歴史を刻んでいるわけですから(笑)。
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by itoyamamakoto
| 2006-05-23 19:49
| またまた旅に出ました