2007年 05月 12日
卒業論文は二人三脚で |
インドでも中国でもそろそろ卒業シーズン間近、まわりでも卒業論文を提出しただの、これから最後の追い込みだの、わたし自身の「時代からの卒業」はまだまだ先だけど、学生らしくそんなことを耳にする機会が多い昨今であります。
成都に戻ってきた最初の晩、「きょん」をしばきながらのご歓談時、西南民族大学日本語科教師兼日系IT企業管理職の塾長からじわり、
「itoさん、川端康成分かる?」
「分かるってどゆことさ?」
「学生が川端康成について卒業論文書いて、おれにチェック入れてくれって言ってんだけど、超難しいからよく分かんなくってさ。見てくんない」
「そんな難しいの?でも、いいよ、ヒマだから」
一宿一飯の恩義をかえせるよい機会と安請け合いしたのが「こと」の始まり。中国の複雑怪奇、諸行無常、無法地帯な卒業論文制度の一端をかいま見ることになるのでした。
そもそも中国やインドの大学生と接してみて分かったこと。
テストではカンニングしまくり
レポートではインターネット丸写し上等
人口からして日本の10倍、さらに大学数自体の少なさからもう日本とは比べものにならない厳しい受験競争を勝ち上がってきたことのひずみ、必要悪としてゆるされているとでもいうのか、インド、中国に共通して
「不正行為へのハードルが低すぎる」
のが現状だから、その大学生活の集大成たる「卒業論文」がまともなはずがない。
とは思ってましたよ。
でも、やっぱりワンダーランド!
川端康成晩期の作品「古都」について書かれた卒業論文。
日本語の「てにをは」がバラバラなのはしょうがない。
→みんながみんな優秀な日本語の使い手のはずはないんだし。
登場人物のさん付けや呼び捨て、ですます調など文体がぜんぜん統一されていない。
→各評論文から切り貼りしていることは明らか。
字数指定6000字以上の原稿なのに、途中にどかっと1500字くらいの引用文挿入。
→それに対する分析は8行程度しかなく、まちがいなく字数稼ぎ。
こりゃあちょっと…、
成都を離れるまでの短期間じゃどうもこうも手の打ち所がありませんな
ということで意識的に記憶の片隅から消去することにしてたんだけど、午前中、会社の方に行ってるはずの塾長から電話が入って
「論文どう?」
「いや、どうもこうも。手直しだけならいいんだけどさあ、引用文をばっさり切り落としたりすると相当字数足りなくなるし、そこを全部こっちで書いてやるわけにもいかないし…」
「そうだよねぇ。実は今こっちにその学生がいるんだけど」
「とりあえず俺が本持ってても仕方ないし、いちおうアドバイスはあるから、そっちに来るわ」
と、思いがけず塾長の職場訪問(日系IT企業)が決定。
成都市中心部、春煕路までも歩いて5分程度の好立地にある高層ビルの12階。見える景色も地上からとはぜんぜん違います。
バブル健在、雨後のたけのこ状態が続く建築途中の高層マンション群も、開発の目からいつまで逃れ続けるのか、初めてこの町を訪れた10年前の面影を残す昔ながらの路地裏もすべて一望。
本日は土曜日ということもあり、30台くらいのコンピューターが置かれたオフィスにはインターンの学生を中心に5人前後が出社するのみ。なぜか全員女性で、それが塾長的でもあるところ。
とにかくそんな花園におわす彼に紹介されたのは2人の若い女の子。
えっ、二人?
「はい。私たちはS南民族大学とS都理工大学の学生です。日本語を勉強しています」
「二人で卒業論文を書いています」
「わたしたちの先生(卒論指導教官)はあまり真剣に卒論を見てくれないので、S先生(塾長)にお願いしました」
そりゃぁ、わたしは容疑者を取り調べる警察官じゃないんだから、事実関係を細かく問いつめたりはしませんよ。
でも、二人で一つの卒業論文って…
それも違う大学同士ってことはとうぜんそれぞれ「個人名」で提出なさろうというご主旨とお見受けしましたが…
何とも効率的な話でありますが、それにさらに言っちゃえば2人の共同作業でもないでしょ。
あなたたちのこの論文、もともと塾長にお願いして取り寄せてもらったQ華大学(@上海)卒業生による「古都」についての論文を「参考文献」としてかなりの部分、原作の香りを残したままに切り貼りしたらしいじゃないの。
つまりは3人4脚。いや、ひょっとしてその背後にはさらに何十本もの先達たちの足が後押ししているのかもしれず。
他にも尋ねてみればこの二人、
まだ「古都」を読んでいない
だから登場人物たちの人間関係どころか、名前の読み方すら知らない
というなんともまあ、呑気というか、怖いもの知らずというか。なのに
16日までには仕上げなければいけないんです…
という件だけはちょっぴり深刻そうに訴えてきなさる。
まあ、結局のところはここまで楽しませてもらった手前、もう知らないふりをするわけにもいかず、午後をまるまるつぶしての大解体作業の始まりですよ。
せめてもの救いは指示を出せる人材が二人いたということ。
「この部分には日本の伝統美、日本人の美意識の元になった鎖国から始まる江戸時代のお話で埋めよう」
とか
「引用する文章をもう一度整理して、前半は主人公と娘、後半は主人公と世間との感情の絡み合いについて分析しよう」
など、それぞれに書くべき内容を離乳食並みに細かくかみ砕いて説明、そしてその間にわたしは「てにおは」や文体の統一を再チェック。
「ああ、おれ成都で何やってんだろ」
と客観的に己を見るのが楽しいし、とうぜん働いた分だけ夜の火鍋もうまいはずと考えれば、やる気は未曾有にわいてこようというもの。
日暮れ前にはどうにか形が仕上がって、「本当にありがとうございました」と何度もていねいに頭を下げてもらったんだけど、やはり一抹の寂しさは残るところ。
だってインドと比べれば改めて感じますよ、至る所で日本とふれあう機会のある中国の学生たちのこと。
漫画、アニメ、ゲーム、音楽、ファッションしかり。政治や経済のニュースだってインドで報道される量の比ではなし。
そんな恵まれた状況にいて、一介の地方大学の特に優秀でない普通の学生たちであっても、インド最高峰大学の日本語科大学院生並みの日本語を話せたりするんだから、卒論の時くらいは頑張って日本語の本(小説)を一冊くらい読んでいただきたかったかなぁ。
もちろんこれは活字好きだから思う戯言。
日本だって読書しない大学生なんてのは珍しくないのかもしれないし、日本を好きになる方法だって押しつけるわけにはいかない。
彼女たちは卒業後、この会社に就職、塾長の下で働くらしいから、彼女たちの教育は引き続き「成都マスター」である塾長にお願いすることにいたしましょう。
by itoyamamakoto
| 2007-05-12 00:35
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